ジュピターのブログ~令和徒然紀行~ 

旅(海外・国内)の写真と紀行文、日常のできごととエッセイと風景や花や自然の写真と書評

カテゴリ: ’09伊・ミラノ、マッジョーレ湖

6.追憶のイタリア・エピローグ<ミラネーゼの来日>(2009年8月)
 
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                                        (ミラノ・ガッレリア)
 
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                               (マッジョーレ湖のボート)
 
 イタリアから戻った2009年8月中旬、夏休み明け5日ぶりにメールを開くと英語のメールが入っていた。
 ミラノからベアトリーチェのメールかと思ってよく読むと、そうではない。

「おばさんのベアトリーチェからこのアドレスを教えてもらいました。
 めいのジュリアです。今私は京都にいます。3日後に東京に行って友人の結婚式に出席する予定です。どこかで会ってお話をしたいのですが・・・」というのだ。

 3日後というと明日ではないか。 あわてて「今夏休みから帰ったところだ。返事が遅れてすまない。私の都合はこれこれ・・・」と急いでメールを返信した。
 
 
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       (ターラント庭園の花壇と滝)
 
 私のメールを読んだらしく、彼女からの次の連絡は、東京の上野のホテルからの電話であった。 その電話でとりあえず日時だけを決めて、会う場所は私のほうからメールで知らせることにした。

 自宅に来るには遠すぎるだろうか、彼女にわかる場所はホテルしかないだろうか、とかいろいろ悩んだ。 結局、私たちには遠いが上野にも近く、わかりやすい帝国ホテルのレストランでランチが適当だろう、ということになり、予約してメールで連絡した。
 
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                     (ホテルから望むマッジョーレ湖)
 帝国ホテルの鉄板焼きのレストランに行くと、定刻に若いイタリア人カップルが待っていた。

 ミラネーゼの名前はジュリア。 ベアトリーチェの姉・ガスパラの娘で、お姉さんによく似た端正な顔立ちをしたすらりとした美人。 一緒にいた夫は、ヌンチオというシシリー出身の建築技師見習いでハンサムな好青年だった。
 
 二人は結婚したばかりで、新婚旅行のついでに、ミラノで彼女が勤めている会社の日本人の友人の結婚式に 明日出席とのことであった。
 
 
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                        (ストレーザの街)
 鉄板焼きのランチを食べながら、2時間半をすごした。
 
 二人は ベアトリーチェと私との奇跡の再会の話を興味深く聞いてくれた。 そして私が ジュリアの母親ガスパラとは37年前に会っただけだが、ジュリアは母親によく似ているということなどを話していると、時間は瞬く間に過ぎていく。
 
 
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                            (マッジョーレ湖)

 私たちがベアトリーチェにプレゼントする予定で、ちょうど出来上がったばかりの「ミラノ記念のフォトアルバム」を彼女たちに託して持って帰ってもらうことにした。 二人はフォトアルバムが珍しいらしく、出来栄えをしきりにほめてくれた。 
 帰国後、彼女たちもパランツァのヴィラに行くので、このアルバムに写っている庭を楽しんでくるそうだ。
 
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           (ストレーザの鐘とストレーザ駅)
 
それにしても、新婚旅行に日本へ、そして日本の友人の結婚式に出席とは、しかも5週間の休暇だそうだが、我々の休暇の概念とは少し違うようだ。

 ミラノ~スイスの定年記念旅行は15日間だったが、彼女たちの新婚旅行休暇は1ヶ月以上なのだ。
 しかもこんなに早くベアトリーチェの親戚と会えるなどとは思ってもいなかったのでびっくりだ。人生はタイミングというが、まさにそのとおりだ。
 
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                          (ターラント庭園)
 
   世界は狭くなった。 グローバル時代を再認識した夏であった。
    ひとまず、 Arrivederci  Milan & Beatrice !


 

5.ノスタルジック・コモ湖のヴィラ・デステと「武器よさらば」のストレーザ 
 
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                    ヴィラ・デステのイタリア庭園
 
37年ぶりの再会を果たした夜は、ベアトリーチェの別荘からボートで目と鼻の先にあるストレーザに宿をとっていた。
 
ストレーザは、ヘミングウェイの小説「武器よさらば」の舞台ともなった場所だ。
主人公ヘンリー少尉が友人のバーテンダーの忠告に従い、恋人のキャサリンとともに嵐の夜、ボートでスイスに向かって逃げるハイライトシーンは有名である。
 
湖畔にはホテルが立ち並んでいて、前方にはスイスの山々が近くに見えて逃避行にはもってこいのシチュエーションである。
 
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         ストレーザ 湖畔のホテル 
 
ストレーザから30分ほどの距離にあるコモ湖は、昔からローマ皇帝に愛され その美しさが讃えられてきた湖である。
 
その中でも 華やかなエステ家の館が今はホテル「ヴィラ・デステ」として有名である。
 
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          ホテル ヴィラ・デステ
 
「ヴィラ・デステ」に入ると、ひな壇のようなイタリア庭園が広がり、避暑客が楽しむこのホテルでのお茶やランチは 垂涎の的である。私たちも思い出としてランチを食べた。
 
すぐ隣のテーブルには、ノーブラと思われる若奥様がシャネルのサンダルをさりげなく履きIT企業のリッチマンと思しきご主人と可愛い娘を従えて、食事をしている。
 
 
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コモ湖畔 丘の別荘
 
コモ湖から見た、山の上までのレンガ色の別荘のたたずまいは、今でも高級リゾートとしての趣は充分にあった。ただ、 このコモ湖の景観は、37年前のマッジョーレ湖との景観とダブり、二つの湖のはっきりとした区別はつかないのだが・・・。
 
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                    ターラント邸庭園
 
パランツァのすぐ隣にある、この広大なターラント邸庭園では様々な植物が鑑賞できる。特に、登って眺めるバラ園の景観は特別である。
 ダラダラ坂を登りきると、まさに設計したような花々と水辺、それに遠景に芝生に生える屋敷という具合に、マクロ的設計術にローマ人は秀でている。
 訪れる客も少なく、ゆったりとターラント邸庭園を鑑賞できる。
 
 
 



4.再訪のノスタルジック・マッジョーレ湖畔の別荘 ~追憶のイタリア・平成徒然紀行~
 
あの37年前(1972年)に訪れた彼女の両親の別荘は、2009年7月の今も、どっしりと大理石作りの広大な構えで、マッジョーレ湖畔、パランツァとターラントの中間に佇んでいた。
 
「週末に別荘にいるからどうぞおいで下さい」
 
というベアトリーチェの招待を受けて、我々夫婦は湖畔の街「ストレーザ」のホテルから別荘の近くの桟橋「ターラント」へ向かった。今回わかったことなのだが、別荘は「パランツァ」よりもターラントの方が近いのだ。
 
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                                               船から見た別荘

   37年前に彼女たちとプレイした敷地内のテニス・コートは、もう使っていないようで荒れ果てて草が生えていた。 父親が3年前に亡くなって以来、この別荘の管理は娘たちが交代でやっているらしく、物理的にも経費的にも大変らしい。
おまけにちょうど昨夜は、この湖水地方には嵐がきて、別荘の木の枝が至る所で折れて散歩道に散らばっている。
 
 それでも、庭の大理石の壁絵や家の内部の調度品や絵画は、今でも値打ち物という印象を与えるほどの堂々とした装いで残っていた。しかし、庭の散歩道は大木の剪定が大変のようで、嵐のせいもありさすがに少し荒れているという印象だ。
 
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                                  別荘
 
84歳の母親はご存命で、挨拶はしたが、少しアルツハイマー症気味なうつろの目で見返しただけであった。その元気のない目は37年という年月の経過を物語る。
ただ、当時の優しい細面の美しい面影は残っており、楽しかった滞在を私に思い出させてくれる。妹のマーチャがご主人と一緒に母親の世話係りとして来ていた。
 
懐かしい彫刻の描かれている壁のある庭で、姉妹はにわか作りのテーブルを前にしてティータイムの準備をしていた。私は懐かしい景色を眺めながら、しばらく無言で感慨にふけっていた。
 
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                                  別荘の内部
 
すると驚いたことに、37年前に私が歌った「春のうららの隅田川」を二人が歌い始めるではないか、しかも日本語で!
どちらが先に歌い始めたのかは覚えていない。そしてイタリア人姉妹がどうやって日本語の歌を今まで覚えていたのかを、そのとき聞いたかどうかも、今では忘れてしまった。それだけ感動していた。
 
これには私だけでなく同伴した妻も驚くとともに感動するばかりであった。 
そして、庭でお茶を前に、なつかしい壁絵を背にして、皆で「春のうららの隅田川」を合唱したのである。
なんというドラマチックなシーンだったことか!
 
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                                                      庭の壁
 
気づかない間に、時は過ぎていたらしい。いつの間にか、かつての龍宮城のような大理石造りの庭に黄金色の夕日が射してきた。
 
まぶしいほどの夕日の中、ターラントからストレーザ行きの帰りのボートに乗った。
遠目でもはっきりとわかる「マッジョーレ湖畔のベアトリーチェの別荘」はイエローの壁と緑の木々を際立たせ、私のまぶたに37年前の青春時代の思い出を刻みつつ、私に永久の別れを告げたのであった。
 
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                                 マッジョーレ湖畔



3-2.続・再会のミラノ・マッジョーレ湖とコモ湖

 ベアトリーチェとのドラマチックな再会劇のきっかけは、2009年(平成21年)ミラノ~スイスの旅の計画の最中、「マッジョーレ湖やコモ湖にも寄ってみたい」という私のふとしたことばであった。
 
現住所は知らなかったので、昔の住所宛にミラノへの旅の内容の手紙を書き、中に私のメールアドレスを書いて送ったところ、昔の住所に届き、その実家に住む長女がベアトリーチェに転送してくれて、彼女から返事のメールが来たのだ。
 
そのメールには、現在の住所と結婚相手や娘三人のこと、今は芸術活動についていることなどが書いてあった。

 私がミラノ経由スイスへの定年記念旅行を考えていることを今度はメールで出したら、スケジュールさえ合えば会いたいということで再会劇が実現したのだ。
 
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                サンタマリア・デッレ・グラツィエ 
 
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                        スカラ座   
 
 私たちは今、暑いここミラノで、スイスへの旅を前にして、2009年7月の一日、37年ぶりの再会を果たしている。
 
工房を訪ねたその夜、ベアトリーチェは夫(ジュズイコ)の運転する車で私たちのホテル「ピエール ミラノ」に迎えに来てくれた。
 そして、夫のいとこが最近開いたというイタリア料理店に案内して、ごちそうしてくれた。大柄のいとこの女性は、早口の英語でメニューを説明するので、ジュズイコに全てお任せだ。
 
夫は人のよさそうな技術屋のようで、私たちの長い奇跡のような再会の話を、ワイン2本開けながら我慢強く聞いてくれた。(帰りの運転は大丈夫かなと心配するほどだ)
 
イタリア訛りの英語と日本語訛りの英語での会話は、相槌を打つにもとても疲れる。
 
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                ホテル・ピエール 
 
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             コモ湖のヴィラ・デステの庭 
 
「長い、信じられないような物語だね」と夫のジュズリコは驚きながら、そしてワインを片手に相槌を打ちながら聞くのであった。
 
外国で生活していると、日本では考えられないほど積極的な行動をとることがある。
1年という限られた留学期間なので、何でも見てやろう、トライしてみようという若い情熱による私の短い英語学校生活の友情が今日まで続いたことを、ジュズリコにはとても信じられないようだ。
 
何しろ、私たちは37年前、イギリスの・ケンブリッジの語学学校で友達となり、その春に私がヨーロッパ旅行の途中、ミラノの彼女一家の自宅とパランツァの別荘を訪ねて以来の友人に過ぎず、2~3年の文通後は今年まで連絡をとっていなかったからである。
 
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                 スカラ座の前 
 
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              ミラノのドゥオーモ  
 
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           コモ湖のヴィラ・デステ 
 

3-1.再会のミラノ ~追憶のイタリア・平成徒然紀行~
 
あの37年前の追憶の「イタリア・マッジョーレ湖」で、再びベアトリーチェに対面できたのは、2009年7月、妻とミラノ~スイスへの旅の途中である。
 
暑いミラノの夏、事前にメールで約束していたホテルのロビーに、ベアトリーチェは少しふくよかな姿で現れた。妻は、どんなすらりとしたミラネーゼが現れてくるかと、期待しつつも心の底では気にしていたのではないだろうか・・・。私自身もこういう何年振りかの再会の時は、ハグしたりするのがイタリア人の自然な振る舞いかなと心配もしていたのだが、落ち着いた彼女の出現で握手するのが精一杯であった。
    
今は、結婚後三人の娘の母親となり、37年前に私が招かれたあの実家のあるスフォルツェスコ城近くのマンションに住み、アーチストとして自分のアート工房を自宅から歩く至近距離に持っていた。我々が知り合いになった昔、ベアトリーチェにこのようなデザインの能力があるなどとは夢にも思わなかったのだが・・・。
 
 
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                      ベアトリーチェの工房の作品 
 
 
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                         スフォルチェスコ城 
 
ミラノの中心地のこんな一等地で姉夫婦が母親と実家に、そして次女の彼女とその娘が、ここマリアカラスの記念館近くに住んでいるという贅沢さだ。
東京で言えば、皇居近くの丸の内に親戚縁者が皆住んでいるということになる。
 
 
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                                   ドゥオーモ
 
 ベアトリーチェのアート作品は素人の私の目にもすばらしいもので、一つ買うことにし
た。持ち帰りのために小ぶりのボールにした。毎年作品展を開いているらしい。
 
 
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工房のあるビルの何階かに住んでいる娘を呼び出して、カフェでお茶を飲みながら37年ぶりの話をした。娘は小柄なチャーミングなミラネーゼで、我々の再会劇を興味深く聞いている。ドイツでフリージャーナリストや編集の仕事をしているという。もう一人の娘もカナダの大学に行っているというから、グローバルな家族ではある。
 
あのマッジョーレ湖畔の別荘もまだ所有しているという。お父さんは亡くなったが、お母さんが病気ながら姉夫妻と生活しているようだ。今週末、母親と一緒にその別荘に行く予定だそうだ。
 
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                                   別荘 
 
 

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