少女時代のミラネーゼ Arrivederci(アリヴェデルチ)! ヴィラ・ベアトリーチェ
ミラネーゼの来日
8月中旬、軽井沢の夏休みから帰って5日ぶりにメールを開くと英語のメールが入っていた。 ミラノからベアトリーチェのメールかと思ってよく読むと、そうではない。
「おばさんのベアトリーチェからこのアドレスを教えてもらいました。 めいのジュリアです。 今私は京都にいます。 3日後に東京に行って 友人の結婚式に出席する予定です。 どこかで会ってお話をしたいのですが・・・」というのだ。
3日後というと明日ではないか。 あわてて、 「今夏休みから帰ったところだ。返事が遅れてすまない。私の都合はこれこれ・・・」と急いでメールを返信した。
私のメールを読んだらしく、彼女からの次の連絡は、東京の上野のホテルからの電話であった。
その電話でとりあえず日時だけを決めて、会う場所は私のほうからメールで知らせることにした。
妻といろいろ相談したが、自宅に来るには遠すぎるだろうか、彼女にわかる場所はホテルしかないだろうか、渋谷には適当な場所があるだろうか、とかいろいろ悩んだ。
結局 私たちには遠いが 上野にも近く、わかりやすい帝国ホテルのレストランでランチが適当だろう、ということになり、予約してメールで連絡した。
帝国ホテルの鉄板焼きのレストランに行くと、定刻に 若いイタリア人カップルが待っていた。
ミラネーゼの名前はジュリア。 ベアトリーチェの姉・ガスパラの娘で お姉さんによく似た端正な顔立ちをした、すらりとした美人。 一緒にいた夫は ヌンチオというシシリー出身の建築技師見習いでハンサムな好青年だった。
二人は結婚したばかりで、新婚旅行のついでに、ミラノで彼女が勤めている会社の日本人の友人の結婚式に 明日出席とのことであった。
鉄板焼きのランチを食べながら、2時間半をすごした。
二人は ベアトリーチェと私との奇跡の再会の話を興味深く聞いてくれた。 そして私が ジュリアの母親ガスパラとは37年前に会っただけだが、ジュリアは母親によく似ているということなどを話していると、時間は瞬く間に過ぎていく。
私たちがベアトリーチェにプレゼントする予定で、ちょうど出来上がったばかりの「ミラノ記念のフォトアルバム」を彼女たちに託して持って帰ってもらうことにした。 二人はフォトアルバムが珍しいらしく、出来栄えをしきりにほめてくれた。 帰国後、彼女たちもパランツァのヴィラに行くので、このアルバムに写っている庭を楽しんでくるそうだ。
それにしても、新婚旅行に日本へ、そして日本の友人の結婚式に出席とは、しかも5週間の休暇だそうだが、我々の休暇の観念とは少し違うようだ。
ミラノ~スイスの定年記念旅行は15日間だったが、彼女たちの新婚旅行休暇は1ヶ月以上なのだ。
しかもこんなに早くベアトリーチェの親戚と会えるなどとは思ってもいなかったのでびっくりだ。人生はタイミングというが、まさにそのとおりだ。
世界は狭くなった。 グローバル時代を再認識した、この夏であった。
ひとまず、 Arrivederci Milan & Beatrice !
ミラネーゼの来日
8月中旬、軽井沢の夏休みから帰って5日ぶりにメールを開くと英語のメールが入っていた。 ミラノからベアトリーチェのメールかと思ってよく読むと、そうではない。
「おばさんのベアトリーチェからこのアドレスを教えてもらいました。 めいのジュリアです。 今私は京都にいます。 3日後に東京に行って 友人の結婚式に出席する予定です。 どこかで会ってお話をしたいのですが・・・」というのだ。
3日後というと明日ではないか。 あわてて、 「今夏休みから帰ったところだ。返事が遅れてすまない。私の都合はこれこれ・・・」と急いでメールを返信した。
私のメールを読んだらしく、彼女からの次の連絡は、東京の上野のホテルからの電話であった。
その電話でとりあえず日時だけを決めて、会う場所は私のほうからメールで知らせることにした。
妻といろいろ相談したが、自宅に来るには遠すぎるだろうか、彼女にわかる場所はホテルしかないだろうか、渋谷には適当な場所があるだろうか、とかいろいろ悩んだ。
結局 私たちには遠いが 上野にも近く、わかりやすい帝国ホテルのレストランでランチが適当だろう、ということになり、予約してメールで連絡した。
帝国ホテルの鉄板焼きのレストランに行くと、定刻に 若いイタリア人カップルが待っていた。
ミラネーゼの名前はジュリア。 ベアトリーチェの姉・ガスパラの娘で お姉さんによく似た端正な顔立ちをした、すらりとした美人。 一緒にいた夫は ヌンチオというシシリー出身の建築技師見習いでハンサムな好青年だった。
二人は結婚したばかりで、新婚旅行のついでに、ミラノで彼女が勤めている会社の日本人の友人の結婚式に 明日出席とのことであった。
鉄板焼きのランチを食べながら、2時間半をすごした。
二人は ベアトリーチェと私との奇跡の再会の話を興味深く聞いてくれた。 そして私が ジュリアの母親ガスパラとは37年前に会っただけだが、ジュリアは母親によく似ているということなどを話していると、時間は瞬く間に過ぎていく。
私たちがベアトリーチェにプレゼントする予定で、ちょうど出来上がったばかりの「ミラノ記念のフォトアルバム」を彼女たちに託して持って帰ってもらうことにした。 二人はフォトアルバムが珍しいらしく、出来栄えをしきりにほめてくれた。 帰国後、彼女たちもパランツァのヴィラに行くので、このアルバムに写っている庭を楽しんでくるそうだ。
それにしても、新婚旅行に日本へ、そして日本の友人の結婚式に出席とは、しかも5週間の休暇だそうだが、我々の休暇の観念とは少し違うようだ。
ミラノ~スイスの定年記念旅行は15日間だったが、彼女たちの新婚旅行休暇は1ヶ月以上なのだ。
しかもこんなに早くベアトリーチェの親戚と会えるなどとは思ってもいなかったのでびっくりだ。人生はタイミングというが、まさにそのとおりだ。
世界は狭くなった。 グローバル時代を再認識した、この夏であった。
ひとまず、 Arrivederci Milan & Beatrice !