ジュピターのブログ~令和徒然紀行~ 

旅(海外・国内)の写真と紀行文、日常のできごととエッセイと風景や花や自然の写真と書評

2009年09月

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

少女時代のミラネーゼ   Arrivederci(アリヴェデルチ)! ヴィラ・ベアトリーチェ

  
 ミラネーゼの来日

 8月中旬、軽井沢の夏休みから帰って5日ぶりにメールを開くと英語のメールが入っていた。 ミラノからベアトリーチェのメールかと思ってよく読むと、そうではない。

 「おばさんのベアトリーチェからこのアドレスを教えてもらいました。 めいのジュリアです。 今私は京都にいます。 3日後に東京に行って 友人の結婚式に出席する予定です。 どこかで会ってお話をしたいのですが・・・」というのだ。

 3日後というと明日ではないか。 あわてて、 「今夏休みから帰ったところだ。返事が遅れてすまない。私の都合はこれこれ・・・」と急いでメールを返信した。

 私のメールを読んだらしく、彼女からの次の連絡は、東京の上野のホテルからの電話であった。
 その電話でとりあえず日時だけを決めて、会う場所は私のほうからメールで知らせることにした。
 妻といろいろ相談したが、自宅に来るには遠すぎるだろうか、彼女にわかる場所はホテルしかないだろうか、渋谷には適当な場所があるだろうか、とかいろいろ悩んだ。
 結局 私たちには遠いが 上野にも近く、わかりやすい帝国ホテルのレストランでランチが適当だろう、ということになり、予約してメールで連絡した。

 帝国ホテルの鉄板焼きのレストランに行くと、定刻に 若いイタリア人カップルが待っていた。

 ミラネーゼの名前はジュリア。 ベアトリーチェの姉・ガスパラの娘で お姉さんによく似た端正な顔立ちをした、すらりとした美人。 一緒にいた夫は ヌンチオというシシリー出身の建築技師見習いでハンサムな好青年だった。 
 二人は結婚したばかりで、新婚旅行のついでに、ミラノで彼女が勤めている会社の日本人の友人の結婚式に 明日出席とのことであった。

 鉄板焼きのランチを食べながら、2時間半をすごした。
 二人は ベアトリーチェと私との奇跡の再会の話を興味深く聞いてくれた。 そして私が ジュリアの母親ガスパラとは37年前に会っただけだが、ジュリアは母親によく似ているということなどを話していると、時間は瞬く間に過ぎていく。
 
 私たちがベアトリーチェにプレゼントする予定で、ちょうど出来上がったばかりの「ミラノ記念のフォトアルバム」を彼女たちに託して持って帰ってもらうことにした。 二人はフォトアルバムが珍しいらしく、出来栄えをしきりにほめてくれた。 帰国後、彼女たちもパランツァのヴィラに行くので、このアルバムに写っている庭を楽しんでくるそうだ。

 それにしても、新婚旅行に日本へ、そして日本の友人の結婚式に出席とは、しかも5週間の休暇だそうだが、我々の休暇の観念とは少し違うようだ。

 ミラノ~スイスの定年記念旅行は15日間だったが、彼女たちの新婚旅行休暇は1ヶ月以上なのだ。
 しかもこんなに早くベアトリーチェの親戚と会えるなどとは思ってもいなかったのでびっくりだ。人生はタイミングというが、まさにそのとおりだ。

 世界は狭くなった。 グローバル時代を再認識した、この夏であった。
 
 ひとまず、 Arrivederci  Milan & Beatrice !

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

      スネガパラダイスの花々  アルプスの牛  アルプスの村里  サンモリッツ湖畔の花々


 アルプスの山並みが眺められるホテル(マッターホルン、アイガー、サンモリッツ)

 ツエルマットのホテル(Hotel Metropol & Spa)はマッターホルンが目の前に見える部屋だった。
 ベランダからも、ベッドに寝転んでも、美しく雪をいただくマッターホルンが見えた。 特に朝焼けに赤く染まったマッターホルン(「モルゲンロート」という)を見た時の感激は今も忘れられない。
 他のお客は、わざわざ朝6時の寒い中、川にかかる橋の上まで出かけて、今か今かと絶好のシャッターチャンスを待ちながら、写真を撮っていた。
 Spa も自由に使えるというので温泉プールで泳ぐことにした。 客は我々のほかに一人の中年女性。
なんと泳ぎながらマッターホルンが眺められるのだ。
 しかも、利用はしなかったが、「ハーフペンショーネ」といって 夕食を半額でプラスできるそうだ。

 グリンデルワルドのホテル(Hotel Spinne)でも、アイガー北壁が目の前にそびえる部屋だった。
 今度は赤く夕日に染まるアイガーの写真が、難所も含めてよく撮れた。 この北壁だけは、雪の衣をまとうことなく黒々と屹立している。 雪も付かない絶壁なのだ。しかし、凍結しているから危ないのだ。頂上直下の「白い蜘蛛」とよばれている氷壁で墜落した登頂隊は有名だ。
 ホテルの裏から歩いて坂を下ると、アルプスの村が広がっている。 結構近くに見えるのだが歩くと遠い。 昼間に山歩きをして疲れた前期高齢者の足では そこまで歩いていけそうにないのが恨めしい。  望遠でとったアルプスの村里は絵のように美しく、幻想的に夕もやに煙る中で静かに佇んでいる。
 赤く染まりかけているアイガー北壁の屹立している様と 平和そのもののアルプスの村里のコントラストが絶妙だ。

 サンモリッツのホテル(Crystal Hotel)も景色の良いホテルだった。 部屋からは見えなかったが、フロントの女性がわざわざ屋上のテラスまで案内してくれて、「いつでもご覧下さい」と説明してくれた。そこから、市街を見渡せるだけでなく、左にサンモリッツ湖を見て、右にピッツネイルへのケーブルカーを見上げて、正面にはアルプスの山々を下から一望できる 見晴らしだ。
 歩いて5~6分の湖畔のそぞろ歩きも、湖面と花々のコントラストが見事だ。
 ツント澄ましたようなサンモリッツの高級リゾートを思わせる街並みも、湖面の優しさと風のさわやかさ、そして湖畔の美しい草花の調和で救われる。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

     マジョーレ湖連絡船   マジョーレ湖畔のあの木何の木   ストレーザの町のレストラン


  マジョーレ湖畔 ストレーザのホテル(Hotel Milano e Speranza Au Lac)

 マジョーレ湖の観光の拠点ストレーザは、美しい町だ。 そのストレーザで我々の泊まったホテルは 名前のとおり湖の前にあり、着いてから少しグレードアップの注文をしたら、最上階の湖の見える部屋を用意してくれた。 
 窓を開けると 湖が目の前に広がった。 そこはパランツァの別荘が、湖を隔てて目と鼻の先に見える部屋なのだ。

 外に出てみるとストレーザはこぢんまりとした 歩きやすい町だった。
 干しポルチーニ茸とオリーブオイルを買った店のおばさんが、気のよさそうなイタリアーノで よくしゃべりいろいろと教えてくれる。
 「おいしいイタリアンのお店はないかしら」と妻が聞くと、すぐさま2軒ほど紹介してくれた。 
 紹介されたパラソルのでている店「Torino」を訪ねて食べたチキンのおいしかったこと。
 てきぱきとした女性のサービスに感心しながら パラソルの下で通りを眺めつつ、まだ明るい夕暮れのストレーザの町でとる夕食。 ベアトリーチェの別荘を肴にして妻との会話は弾む。
 夕食後、ホテルの前のマジョーレ湖畔を、夕日を浴びながら散策する時間は、夢か幻かと間違うほどの恍惚の瞬間だ。
 アバの歌「ダンシング クイーン」にある「I’m having the time of my life.」(人生で最高の時)そのものだ。

 「この木何の木不思議な木」と歌われてもいいような 大きな木が湖畔に一本すっくと立っている。
 その木陰にカップルが集う。
 目の前には青く広がるマジョーレ湖の穏やかな水面。 
 夕日に輝く ゆったりとした7月の夏の一日が過ぎ去っていく。

 「Hotel Milano e Speranza Au Lac」は、湖畔を散策できるし、すぐ裏にはお店が並んでいるし、という便利な場所でお勧めだ。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

    ミラノ湖水地方マジョーレ湖全景  ヴィラベアトリーチェの庭から湖 窓から庭 ヴィラの庭

 マジョーレ湖畔の別荘 ~ヴィラ ベアトリーチェ~

 マジョーレ湖畔パランツァの別荘は懐かしい追憶の風景を思い出させてくれた。
 約束の日、ストレーザからパランツァへ向かって マジョーレ湖を船で渡る時、遠目ながらも昔懐かしいあめ色の別荘と思える建物が目に入った。
 いざ、別荘の前に立ったとき、私の心は37年前、28歳の青年時代に戻っていた。

 彼女たち4姉妹とプレイしたテニスコートは既に荒れて使っていない。これほど広かったかと思うほど、庭は広く見えた。彼女のお父さんが3年前に亡くなり、お母さんはアルツハイマーで介護の状態なので、別荘の管理はままならぬらしい。
 しかし、これだけ広いと管理は大変だろうと容易に想像できるが、37年以上もよく維持していると逆に感心する。
 37年前に皆と一緒に撮った写真のバックにあった豪華な壁は、磨けば光るはずだが、やや薄汚れていた。一方で、家の内部にはすばらしい暖炉、壁絵、装飾品、天井画、タイルの廊下など、貴重な調度品がそのまま残っている。まるでヨーロッパに古くから建つお城にあるような装飾品である。

 庭に立つと目の前にマジョール湖が広がっている。我々は、その庭で急ごしらえのテーブルを前にしてお茶を飲みながら、思い出話に花を咲かせた。
 すると突然、妹のマーチャが「春のうららの隅田川・・・・」と歌いだした。ベアトリーチェも合わせて歌いだす。

 どういうことだ、これは・・・・。37年前に私が歌った歌を覚えていてくれたのか。感激の一瞬だ!
37年間暖めていた思い出は、ここに至って最高潮の感激を伴う正夢となって現実の再会劇となったのである。

イメージ 1

イメージ 2

イメージ 3

イメージ 4

    ミラノ・ガッレリア  ドゥオーモからミラノ全景  カステロ・スフォルツォ  ドゥオーモ

  ミラノでの再会 ~追憶の旅エピローグ~(平成徒然紀行)

 「現役のうちは過去を懐かしんではいけない」、とはあのイチローの名言であるが、もう定年を迎えた私となっては、過去を懐かしんでもいいだろう。
 特に、37年前のミラノとパランツァの思い出は、値段のつけられない青春時代の思い出であるのだから。

 ミラノの工房とレストランでのディナー(ベアトリーチェ アートスタジオ)

 ミラノは暑かった。しかし、暑くても行かねばならなかった。 
 なんといっても、37年ぶりのベアトリーチェとの再会が、今回のイタリア~スイス定年記念旅行の最初の都市「ミラノ」での最大の目的であったからである。 ミラノでの37年ぶりの追憶の風景は、再会の瞬間、新しい風景を伴ってよみがえってきた。

 ミラノの彼女の工房(ベアトリーチェ アートスタジオ)は、思ったほど大きくはなかったが、マリアカラスの記念館そばの高級市街地にあった。 それは こじんまりとしたイエローのビルの1階にあり、中には作品が所狭しと飾ってあった。 20数点はあったろうか。その中でも、本当に気に入った作品は大作で持ち帰ることができないので、記念にもなり 持ち帰りができそうなボウルをひとつ求めた。
 彼女に美術的な才能があることなど、37年前には思いもつかなかったが、今や 年に1~2回は作品展を開いているらしい。

 37年前のミラノ訪問は、私が28歳の時、ベアトリーチェが18歳のミラネーゼそのものの時であった。 私がイギリスの留学先から春休みにヨーロッパ旅行をした途中、3日間ミラノに立ち寄ったのである。 彼女の家が高級市街地にあり、マジョーレ湖に別荘を持っているなど夢にも思っていなかった。
「これから家族一同で別荘に行くが、一緒に来るか」というお父さんの提案に、予約していたユースホステルをすぐさまキャンセルして 別荘に行くことを喜んで同意したというのが37年前の真相である。

 夕食に彼女の夫のいとこが最近開いたという現代風イタリアンレストラン「puroesemplice(Via FeliceCasati)」に招かれた。 夫のジュズリコが運転する車でホテルから15分ぐらいの場所にあった。お互いに十分には話せない英語での会話だから、けっこう疲れた2時間半だった。 ジュズリコは我々の長い奇跡のような再会の話を辛抱強く聴くため、ワインを2本もあける羽目になった。 一生懸命イタリア訛りの英語で会話をあわせてくれるジュズリコとベアリーチェ夫婦には感謝するしかないミラノの楽しい夜だった。

↑このページのトップヘ